龍ケ崎を訪れた伊達宗房と吉村

前回は、仙台藩二代藩主・伊達忠宗(ただむね)の側室になった龍ケ崎にゆかりのある「たけ」(出家後は慶雲院)について取り上げました。慶雲院の息子・宗房(むねふさ)と孫の吉村(よしむら)は、何度か龍ケ崎を訪れています。彼らと龍ケ崎との関わりを見ていきましょう!

 

宮床伊達家を興した宗房

 宗房は3歳のとき、父である藩主・忠宗の命で、伊達家とゆかりのある田手家の養子に出されます。田手家を継いだ宗房は、三代藩主・綱宗(つなむね)によって姓字を「田手」から「伊達」に戻されます。

 

 

 宗房が初代となる伊達家は、支配地が宮城県黒川郡大和町宮床にあったことから「宮床伊達家」を称し、伊達一門となります。

 

 

宗房の龍ケ崎訪問

伊達家略系図
伊達家略系図

 延宝6年(1678年)、宗房は江戸参勤から仙台へ帰る途中に、母・慶雲院の親戚筋にあたる龍ケ崎村の師岡助四郎を訪ねました。助四郎の案内で、宗房の祖父にあたる山戸土佐と慶雲院の廟所である大統寺(横町)と、祈願寺の一乗院(根町/現在は廃寺)に参詣します。その後、土佐の屋敷跡や元の家来を訪ねています。このときに宗房が大統寺で土佐の実名を尋ね、祖父の足跡などについて調べていることが分かっています。

 

仙台藩五代藩主となった吉村

 吉村は延宝8年6月、宗房の長男として宮床に生まれます。幼名は卯之助といいます。
 貞享3年(1686年)1月、宗房が41歳で亡くなると、わずか6歳で宮床伊達家を継ぎます。その後、元禄3年(1690年)12月に四代藩主・綱村(つなむら)の前で元服し,「村房」を称するようになります。元禄8年12月には綱村の養嗣子となり、翌年に将軍・徳川綱吉に拝謁。名前を「吉村」に改めます。そして元禄16年、綱村の跡を継いで五代藩主となるのです。

藩主・吉村の龍ケ崎訪問

 吉村は享保13年(1728年)6月に、龍ケ崎を訪れています。藩主の正式な訪問は、寛永2年(1625年)の藩祖・政宗以来、実に103年ぶりのことで、かなり注目されたようです。
 『利根川図志 巻五』によると、布川(現・利根町)を通って龍ケ崎領内に入った吉村は、領民の出迎えを受けてから、土岐氏の城があった龍ケ崎城跡(現・竜ヶ崎二高付近)に登り、曲輪の東側から鹿嶋方面を眺めたのち,大統寺や般若院(根町)を詣で、寺僧の案内で祖父・忠宗が建立した愛宕神社などを訪れています。
 吉村が龍ケ崎を訪問した翌月には、仙台藩の役人が、土佐について彼の身分や素性などを調べている資料もあることから、吉村も土佐の身元を調べているように思われます。

 

慶雲院の出自を明らかに

山戸土佐夫妻供養塔    (宮城県大和町覚照寺境内)
山戸土佐夫妻供養塔    (宮城県大和町覚照寺境内)

 宗房と吉村の親子2代にわたる調査は、伊達氏の系図にも反映されるようになります。かつて四代藩主・綱村のころに編纂された『伊達出自正統世次考』の系図では、宗房の母について「家の女房」とあるだけでした。

 それが、吉村の没後に編纂された『寛政重修諸家譜』では、宗房について「母は山戸氏」という素性が記載されます。この2人の龍ケ崎訪問には、単に龍ケ崎出身で藩主の側室となった慶雲院の″出自を知る”という目的があったのかもしれませんが、慶雲院やその父・山戸土佐の家柄などを公にすることが目的だったようにも思われます。

 さらには、伊達一門から藩主となった吉村の血筋を明らかにしたいという想いや,仙台藩と飛地・龍ケ崎の関わりを示したいという想いがあったのかもしれません。
 龍ケ崎から遠く離れた宮床伊達家菩提寺の覚照寺には,慶雲院や伊達宗房夫婦の墓に加え、慶雲院の両親・山戸土佐夫妻の供養塔が今も残されています。


 

 いかがでしたか?前回は、仙台藩主の側室となった慶雲院。そして今回は、宮床伊達家初代・宗房、五代藩主となった吉村と山戸土佐につながる伊達家の人々を紹介しました。   

 しかし、残念ながら山戸土佐については、『龍ケ崎市史』などでも家柄や素性、その屋敷跡や大統寺にあるとされる廟所がどこにあったのかさえ、明らかにされていません。だからこそ、遠く離れた覚照寺に残されている山戸土佐夫妻の供養塔や慶雲院の墓、座像などは、仙台藩宮床伊達家と龍ケ崎のつながりを示す貴重な資料といえるでしょう。

次回もお楽しみに!                          (T・I)


【参考文献】
・龍ケ崎市史編さん委員会編『龍ケ崎市史 近世編』龍ケ崎市教育委員会 1999年
・八木 勤次著『名君伊達吉村の祖母 慶雲院小笹の生涯』 1990年
・龍ケ崎市歴史民俗資料館『伊達政宗にはじまる龍ケ崎領』 2006年