土岐治英と越前・朝倉氏の意外な関係とは・・・?

【土岐大膳大夫入道宛朝倉義景書状】~織田信長と何度も対戦した越前の大大名・朝倉義景から届いた手紙~

 前回、江戸崎城主・土岐治英という人物について触れました。治英の時代は来迎院多宝塔(馴馬町)や観音寺(牛久市久野町)などの修築事業を行い、次男の胤倫(たねとも)を要所である龍ケ崎城に配置するなど、江戸崎城(稲敷市)を中心に常陸南部の国人領主としての地位を確立し、安定させていったのです。

 

 今回取り上げるこの書状は、越前国一乗谷(福井県福井市)の朝倉義景から治英に宛てて書かれています。「土岐氏・朝倉氏関係略系図」(『龍ケ崎市史 中世編』引用)をみると、美濃(岐阜県)の土岐氏と朝倉氏は縁戚関係にあることが分かります。

 

  治英の父・治頼は、はるばる美濃から常陸土岐氏の名跡を継ぎました。兄の頼武と頼芸(よりのり)は、二人とも美濃国の守護職を務めています。頼武の妻は朝倉貞景の娘で、その間に生まれた頼純も美濃守護を務めています。頼純は治英の従兄弟にあたるので、治英からみた義景は従兄弟の従兄弟という関係になるのです。この二人の関係を取り次いだのが、伯父の頼芸であったといわれています。

 

土岐大膳大夫入道宛朝倉義景書状・翻刻文(※)

(※このページでは、翻刻文のみの掲載とさせていただきます。このページの冒頭のリンク『広報龍ケ崎 りゅうほー 令和2年11月後半号』の掲載ページでは、実際の書状の画像をご覧いただけます。)

 

 この書状は、文面などから元亀4年(1573年)のものと推測されています。治英が前年秋に義景に宛てた書状は,数か月後の3月6日に使者によって義景のもとに届きました。義景が受け取ってすぐ出した返事が,この書状です。書状の中身を見てみましょう。

 

① 治英への祝福と感謝

 ここでは,治英の支配地域が平穏無事であったことに対する祝福と,戦乱の世の中にこうして遠路はるばる書状が遣わされてきたことに対する感謝の気持ちが表れています。単に書状の決まり文句として書かれたものかもしれませんが,常陸土岐氏の領内の安定が内外に認められていたとも考えられます。

② 信長と対立している
 隣国の加賀(石川県)で,国人領主の堀江氏が謀反を起こしたことに触れたあとで、「私はいま織田信長と対立していて,戦をしているが有利に進めています」などと義景の近況が述べられています。

③ もっと戦の秘術を教えてほしい

 玄東(げんとう)という使者から「戦の秘術を教えていただいた」、「残りの書物があれば,ぜひほしい」という旨が書いてあります。この玄東(武田信玄家臣)と義景を取り次いだのが、治英と思われます。

④ りっぱな馬具をありがとう
 治英から書状とともに義景の元へ届けられた馬具の鞦(しりがい)と三懸(さんがい)の礼を述べ,「贈り物の御礼に,越前の特産品である絹を送ります」と書かれています。このことから,義景と治英がかなり良好な関係であったことが分かります。

⑤ 最近花押を変えました
 戦国大名が自分を証明するためのサインを花押といいますが,義景は自分が花押を変えたことについて「不審に思わないでくださいね」とわざわざ一文を加えて伝えています。これはとても興味深い内容で、義景が花押の変更を他の大名にも知らせたものであり、遠くの治英にもそれを知らせる気遣いが表れています。

 

 こうしてみてみると、義景のしたためた文面には,治英に対する親しみと敬意を込めた心配りがにじみ出ていますね。義景は,この書状を出した5か月後の天正元年(1573年)8月,信長に本拠の一乗谷を攻め落され,自刃する運命を辿ります。

 

 江戸崎城の治英に届けられた書状は,いつの間にか朝倉の本拠地であった越前に戻っており,現在は福井県福井市にある福井県文書館に保管されています。この伝来の経緯については不明ですが,義景と治英、越前と常陸の不思議な巡り合わせを感じませんか。

                                    【T・I】


【参考文献】
・佐藤 圭「史料紹介 土岐大膳大夫入道宛朝倉義景書状」『龍ケ崎市史研究 第9号』龍ケ崎市教育委員会 1996年
・龍ケ崎市史編さん委員会編『龍ケ崎市史 中世編』龍ケ崎市教育委員会 1998年