龍ケ崎にあった軍需工場「羽田精機」
旧日本兵の日章旗を遺族に還したいー。昨年12月、当館に1通のメールが届きました。差出人は、アメリカで旧日本軍の遺留品を返還する活動をしている女性。大きく「祈武運長久」と書かれた日章旗には、「大河原 寿 君」と宛名があり、その出征兵士の同僚と思われる「羽田精機株式會社」従業員や役員が署名を寄せています。
「羽田精機」は、奈戸岡(現・日立建機㈱や森尾電気㈱の工場一帯)にあった軍需工場で、砲弾や車両を生産する大工場でした。
私達は早速、大河原さんの遺族を捜そうと資料や聞き取りによる調査を開始しましたが、その矢先にメールの差出人の方から「遺族がみつかった」との連絡が入りました。
大河原さんは本社(東京)の従業員だったと思われますが、龍ケ崎工場でも、同僚たちに見送られ入隊していった従業員は少なくありませんでした。これにより不足した労働力を補う目的で、多くの学生が働き手として工場に動員されました。
軍需工場であった羽田精機は、何度も米軍機による機銃掃射の標的となりました。当時勤務していた方の回想録には、こう記されています。
「龍ケ崎工場の真っ青な空に銀色に光る秋刀魚や鰯のようなB29の群れ」「機銃掃射は超低空。操縦者のメガネの顔までよく見えた」「自決用に毒が支給された」「女化や馴馬の山中に逃げ目耳をふさぎ爆風にやられないよう腹這いになっていた」「医務室に運ばれる遺体をみて,私は,今日も生きていた!と…」
終戦後、羽田精機はGHQの監視下に置かれましたが、昭和25年(1950年)にフォークリフトなどを生産する会社に譲渡され,その歴史に幕を閉じました。
戦前の龍ケ崎の発展に大きな影響をもたらした羽田精機。
市の昭和史を知るうえで欠かせない存在ですが、終戦時に関係資料のほとんどが焼却処分され、分からない部分が多いのが現状です。
当時の人々の目に、工場はどう映っていたのでしょうか。当館はこれからも資料収集を続けていきます。