‟沼の詩人” 澤 ゆき
自然豊かで、今日も市民の憩いの場となっている牛久沼。この沼をこよなく愛し、沼の詩に自身のさまざまな想いを込めてきた詩人がいます。
澤ゆきです。
明治 27年 (1894年) に稲敷郡茎崎村 (現 ・つくば市小茎)の酒造業・相澤家の長女として生まれたゆきは、実家の裏手にあった牛久沼の雄大な景色を見て育ちました。地元の尋常小学校を出ると祖母の勧めで上京し、親戚の家で生活しながら学生時代を過ごします。東京の学校では外国語に親しみ、西洋文学に関心を持ちました。
ゆきは詩人になることを志すようになりましたが、学生生活を終えると、すぐに実家に呼び戻されます。龍ケ崎の酒造業・飯野家との縁談を勧められたのです。
ゆきの中で「一生独身を貫き詩作に励みたい」という思いと、「親を悲しませたくない」という思いが葛藤しました。悩み抜いた末、19歳で嫁ぐ道を選びます。
「沼にきく」
(-詩集『孤独の愛』再版より-)
また
‟むすめご” がひとり
沼ある里から減つた
―乙女― と云う
名を そのまま
‟嫁に 掠(と)られた”
惜しくはないか
沼よ
当時は、商家の嫁が詩を書くなど許される時代ではありませんでしたが、ゆきは諦めませんでした。 家族が寝静まった夜遅く、 風呂焚きのかすかな明かりで原稿を書き、文芸誌への投稿を続けたのです。
20歳の時、文芸誌で一等入選を果たすと、 詩人・川路柳虹に師事します。島崎藤村などの著名作家に才能を認められながらも、商家の嫁としての立場を重んじ、家族には詩作に関わる一切を隠していました。
苦難の戦争を経て、家事や子育ても一段落したゆきは、精力的に詩作活動をするようになります。
晩年は、龍ケ崎市文化協会の詩部門顧問として文芸の向上に尽力。昭和46年(1971年)に最後の詩集『浮草』を出版し、 その翌年に78歳の生涯を閉じました。
「メダカの浴衣」(一部抜粋)
子とも 孫とも さらつとわかれ
メダカの水先案内で
十九の暮に 沼に置いた 透明な魂を
拾いにゆく
70歳時の遺言のようなこの詩は、大好きな沼への想いがあふれた作品の一つです。
ゆきの悲しみや苦しみを母のように包んでくれたのは、牛久沼でした。牛久沼に訪れた際は、「沼の詩人」と呼ばれた彼女に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
【T・I】