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「龍ケ崎」という地名の由来

諸説あって「これだ」という確固たる定説はありませんが、古文書や伝説などから推測することはできます。由来とされている説をご紹介します。

(1)竜巻が多い土地柄だったから
昭和34年(1959)に編纂された『龍ケ崎市史』(和歌森善郎著)によると、古代の龍ケ崎は毛野川(鬼怒川)・蚕飼川(小貝川)・常陸川などの河川が合流した葦原で、気象条件によっては竜巻が発生、猛威をふるうことがしばしばありました。川の水を巻き上げて天に届く竜巻の様子が「龍の昇天」を思わせ、「龍が立つ崎」=龍ケ崎となった、という説です。

(2)龍が降ってきた地の先にあるから
千葉県に、龍に関するこんな言い伝えがあります――干害で苦しむ農民の祈りに答え、沼の主である龍が女に化けて現れ、雨を降らせる約束をした。女が立ち去ると大雨が降り出し、人々は助かる。この七日後、巨大な龍の体が三つに裂け、天から降ってきた。頭部・胴体・尾それぞれが落ちた場所にその後「竜角寺」(千葉県印旛郡栄町)、「竜腹寺」(同郡本埜村)、「竜尾寺」(千葉県八日市場市)が建てられ、手厚く葬られた――その龍の体が落ちた場所のすぐ先にある場所だから「龍ケ崎」となった、という説です。

(3)町の形が龍を思わせるから
江戸時代の学者・中山信名が記したとされる書物『新編常陸国誌』によると、故城の地(現在は竜ケ崎一高が建つ台地。竜ケ崎二高が建つ場所との説も)が独立してそそり立ち、北側の稲敷台地に続いているさまに由来していると書かれています。故城の台地から稲敷台地に連なってそそり立つ形が龍を思わせるから「龍ケ崎」となった、という説です。この記述により、江戸時代には「龍ケ崎」の地名が使われていたことが分かります。

(4)龍崎氏が治めていたから
龍崎氏(読みが“りゅうざき”なのか“りゅうがさき”なのかは不明)は、源頼朝の信頼を得て常陸国南郡の地頭職を任された下河辺政義(しもこうべ・まさよし)の子孫です。龍崎氏は在地領主としてこの地方を治めた一族で、応永二年(1395・室町中期)の文献にその名前が記されています。鎌倉時代には「龍ケ崎」という郷は存在せず、龍崎氏が居を構えたとされる台地(現在の竜ケ崎一高の建つ台地)周辺は、羽原郷に属していました。龍崎氏は室町時代に鎌倉幕府奉公衆を命ぜられ活躍していたことが文献から明らかになっています。この領主の名前から「龍ケ崎」になった、という説です。

一方で、龍ケ崎を領したのでその地名によって「龍崎」と称したとの記述もあり、地名と領主名の前後関係ははっきりしていません。