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龍ケ崎市の歴史(市制施行以前)

龍ケ崎市の地は、市域の北部にあたる筑波稲敷台地と南部にあたる猿島北相馬台地の関東ロームの堆積層である台地、そしてこの両台地に挟まれた、鬼怒川・小貝川によって形成された沖積平地の低地からなっています。


北方町の台地や若柴町から別所・羽原・大塚町にかけての台地からは、縄文時代の遺跡が出土しており、郷土の祖先である人々は、まずこの台地に住みついたと思われます。

 

承平5年(935)

平将門の乱の時、兄平貞盛や藤原秀郷と共に戦った平繁盛の子孫は常陸に定着し、東条氏を始めとする常陸平氏の祖となり常陸大掾に代々任せられ、信田、東条などの市域の村々を支配下に置きました。

 

養和2年(1182)

下河辺政義が源頼朝より常陸南郡の惣地頭職に任せられ、この地方もその支配下に入りました。義経の姻戚であったため3年後には領地を没収されましたが、その子孫は土着し、龍崎氏と称し豪族として発展していきました。

 

永享12年(1440)

江戸崎城に拠る土岐氏が勢力を伸ばして市域の中心部を押さえ、馴柴・馴馬地域は牛久の岡見氏、川原代・長沖・豊田地域は布川の豊島氏と、三者並立の状態が続きました。

 

天正18年(1590)

豊臣秀吉による天下統一が成ると水戸の佐竹義宣の領内として実弟・芦名盛重がこの地域の領主となりましたが、まもなく芦名氏は江戸崎に移り、代わって秀吉の家臣・富田将監が領主となりました。

 

慶長5年(1600)

関ヶ原の戦いの後は徳川家康の領地となり、当時日本一の土木家であった伊奈備前守忠次が開墾に力を尽くしました。

 

慶長11年(1606)

龍ケ崎村は、仙台藩伊達政宗の所領となって代官所が設けられ、その他の市地域内の村々はたびたび領地替えが行われましたが、幕末には、天領、旗本領、前橋藩・高岡藩・牛久藩などの他藩領と交錯し、河内(かっち)郡、信太郡、相馬郡にまたがる相給村となりました。江戸時代の260年間は、龍ケ崎市域に急激な農地の開発と平和の回復による人口増加をもたらし、土木工事による農業開発が進み、広大な土地が開墾されて新しい村落が増加しました。

 

明治維新を迎える

龍ケ崎村は仙台藩領を離れ、明治2年(1869)に宮谷(みやざく)県、4年に龍ケ崎藩となり、その後廃藩置県により新治県に属し、明治8年(1875)に茨城県に編入されました。川原代・長沖・豊田・北方などの印旛県は千葉県を経て茨城県北相馬郡となり、その後、大小区制、連合村となりました。

 

明治22年(1889)

町村施行により1町6か村となり、市街地である旧龍ケ崎町は近隣農村を商圏とする商業都市として県内はもとより、他県からも人々が集まり、県南の中心都市として発展しました。

 

昭和28年(1953)8月

町村合併推進法が公布されると市制施行へ積極的に進み、昭和29年(1954)3月20日、稲敷郡龍ケ崎町・馴柴村・八原村・長戸村・大宮村と北相馬郡川原代村・北文間村の1町6か村が合併して龍ケ崎市が誕生し、さらに昭和30(1955)年2月に北相馬郡高須村の一部が編入されて現在の龍ケ崎市となりました。